Friday, December 29, 2006

補助線の可視化について

12月27日に日本に一時帰国し、昨日は大学院の研究室に寄りました。O先生と午後3時から6時頃まで、実験計画を打ち合わせて、予備実験を行いました。
O先生の考えている補助線の可視化という観点は、まさに人間が新たな発想をする視点を示していて、非常に興味深いものでした。
O先生は、図の中で見るものの気持ちにしっくりはまる部分がいくつかある場合、そのいくつかの間の繋がりを新しい視点で見せるような補助線が発想には有用であると考えている。
すなわち、補助線が、図には見えていなかいが、実際には存在する。その補助線が、潜在する実体に対応している場合は、その発想は実用性をともなってくると考えています。
問題は、最初に補助線の候補を見せてくれるような機械があったとして、それは役に立つのかどうかである。人が自分で補助線を引くと、自分の書き込み動作によって自分自身が持っているアイデアを鮮明に掘り起こすことができる。それを機械が変わりに引くというのは、この掘り起しを阻害してしまうのではないかということを考えている。

早速、予備実験をして見たところ、「最初に島だけを見せておいて、後で橋を追加して表示すると困ったことになる。 つまり、橋は、そのときまで自由に橋を頭の中で追加しながら進めてきた思考を 無視して立ちはだかる存在になり、思考が停止状態になる」ということがわかった。
このことを改めて考えると、「人は従来認知していた二つ以上の身体感覚の関係に、新たな感覚を認知させると従来の関係を崩壊させる必要が出てきて、一度停滞状態を起こす。しかし、その新たな感覚と従来の感覚との新しい関係について理解が深まるとその関係の概念化ができ、身体をその新たな関係の概念に沿って動かすことが可能になり、熟達が進む。」という中京大学の諏訪先生の「メタ認知」の研究を思い出した。
人は、補助線が最初にあろうが無かろうが、認知した事象間を自分で自由に可視化されていない補助線を引きながらその関係を自分の経験や知識に照らし合わせて、自分が納得しやすい関係を構築する。そして、その関係を概念化する。
その後、自分又は人に示唆されて、認知していなかった赤ノードの橋の存在に気づく。
その認知されていなかった赤ノードである橋を新たな補助線として事象間の関係を再定義する必要に迫られと、従来の概念を壊す作業が必要になるために、人の思考が一時停止したような状態になる。この停止状態の過程、すなわち、既存概念の崩壊と新たに認知された補助線による事象間の関係を再定義しようとする過程では、人は今までの経験や知識を新たな補助線に沿って事象間を組み換え直すために、新たな発想が創発されると思われる。

この仮説が正しいとすれば、発想に有効な補助線を認知させるタイミングは、最初に人が自由に事象間の関係を補助線を引きながらその関係を概念化させた後に行わせたほうが良いと思われる。
新たな補助線を認知し、思考が停止するのは、新たな発想を阻害しているのではなく、既存概念の崩壊と新たな概念構築の準備過程と考えたほうが従来の実験結果を支持すると思われる。
早速、実験の準備に取り掛かり、本実験前に予備実験を数度行いたいと思う。

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